サイトウさんの自画自賛ブログ。夫の分も幸福に生きる。

36歳で当時56歳の夫を交通事故で亡くす。悲しみを克服するまでの奮闘記。そして自分が選んだモノ思いついたことなんでも自画自賛して前向きに過ごす。

【夫との死別から3週間】人と交流することの効果

夫を亡くしてから今日まで約3週間

その手の本を3冊読み、ネットに溢れる手記やブログ、YouTubeで語られる和尚さんの言葉や、天国からのメッセージなどなど

 

いろんな媒体に助けられた実感がある。

そりゃあ、冷静なときに触れればうさんくさく感じただろうと思う

「そう言われちゃえば、当事者は救われるだろう」他人事の域を越えずに分析してたと思う

 

けど今は違う。

すべてに書かれていることが他人事ではなく、今まさに自分にふりかかっている試練

それを思い知ると猛烈に怖くなるし、なんで私が、、どうしてもそう思ってしまう。

いろんな文章に触れて、死者の想いを少しだけでも理解して浄化した気持ちになるけど、ふとしたとき現実をつきつけられて胸が押し潰されるような感覚になる。

 

とにかく、自分次第なんだ

亡くなった人からのメッセージを受け取ることができる方法とやらも、結局は自分がどう感じだかがベースになる、と。

やっぱり、故人に意思はあったとしても遺族に主張はできなくて、遺族の幸せや健康をただ黙って見守る。大好きだよとメッセージを送り続けてくれている。

すべて納得できるし、私の夫ならそうに違いないと心から思う。それを疑うつもりはない。私だってそう思っている。

けどお互いが一方通行で、対話はできない。

寂しいと感じるのはそこなんだろうなと思う。

同じことを、夫も感じてることだろう。

でもこれは、家族と死別した人の多くがいきつく結論で、受け入れなければならない現実なんだろう。

 

やっぱり悲しみを克服するには、残された人が自分の足で動き出す他ない。

どの文献でも、いつまでも閉じこもっていてはダメ、1日1つでも用事を作り必ず外に出る、友達に会う、新たな出会いをつくる、などのススメが紹介されていた。

 

私はすでにそれを体感している。

誘ったら躊躇なく付き合ってくれた青木さんと、飲んでる間どころか帰って寝るそのときまで、悲しみに囚われず穏やかに過ごすことができた。

誰だれと会いたいけど連絡先がわからなくてと相談した人が、すぐに飲みの場をセッティングしてくれた。

お互いに名前が思い出せない共通の知り合いの話をして笑ったりした。

事故当時の生々しい状況を聞くシーンさえあったけど、それでも冷静でいられた。

 

「人と交流する」ことは、場合によっては面倒だったりストレスに感じることだってある。だったら気心知れた一部の人達とだけ繋がっていれば十分。そう思っていた私が、どんなに傲慢だったか気付かされた。

誰かと関わる事は「娯楽」と「必要」のあいだくらいに位置する特殊な項目なのかもしれない。

 

もっと人と話したい、話を聞きたい、そしてあそこに行けば齋藤さんが必ずいて、話し相手になってくれる、そんな風に思われる場所を見つけたい。

第二の人生の目標は、こんな感じかもしれない。